名僧”独国和尚”について(女川三十三観音碑)

宮城県女川町には独国和尚というお坊様が居た。和尚は女川出身でありながら、主に福島を拠点に米沢など各地で修行し、旱魃や病苦災禍などから庶民を救った名僧と伝えられている。「五穀豊穣、天下泰平」を祈願して建立した三十三観音碑は今も女川に存在し地元の信仰を広く集めてきた。2011年3月11日の東日本大震災の大津波では貴重な文化財や資料が流されました。ここに改めて、独国和尚の生涯を詳しく研究された文献・「女川町誌」から転載して紹介いたします。

女川三十三観音 一番碑~五番碑
女川三十三観音 六番碑~十三番碑
女川三十三観音 十四番碑~二十一番碑
女川三十三観音 二十二番碑~二十九番碑
女川三十三観音 三十番碑~三十三番碑
女川三十三観音
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※修業を積んだ米沢・亀岡文珠堂には「独国和尚」の石像がある。

————————-  女川町「女川町誌」昭和35年第8刊  ————————-

第十三編    [人物・旧家]  一、女川町の人物 十九、名僧 独国和尚

一、独国和尚研究調査の経路
 女川地方には独国和尚の庵寺を復興した庵寺があり、また幾多の石碑もあって、次のような事なども言い伝えられている。独国は鍛冶屋(木村家)の五代前に生まれたキカン坊で、友達からも好かれず、野良働きもいやがり、盆に砂をまいて手習いばかりして居たので、お寺の小僧にやったという。その後米沢の岩屋にこもって修行し、次第にえらい坊さんになり、諸国を巡って布教し、時々故郷の庵寺に帰って来ては、いろいろ碑を建てたり、布教したものである。庵寺の入口に近年まで松の枯木があったが、之を地方では「竜灯の松」と言った。その理由は独国様が郷里に帰られる数日前にこの松の上には独りでに灯籠がともる。地方の人はこれを見ると「独国様がまたお帰りになるぞ」と言ってお待ちしたものである。そしてこの灯を竜灯と称したしたので、誰言うとなく松をば「竜灯の松」と言ったのだということである。
或る年のこと、福島地方で大旱魃のあった際、大勢の僧侶が雨乞いの祈祷をしたが、少しも雨が降らない。そこにみすぼらしい黒衣の雲水が来て、進んで祈祷をしたら忽ち大雨沛然として降り、一同を驚かしたと同時に衆僧からは妬みを買ったといわれている。更に三十三観音は平の近傍と福島の近傍と女川のこの三十三観音との三か所に建立したということが言われている。
そこで庵寺の前の三碑を種々の角度から研究し独国の甥松太郎(吉右ェ門)が十三才の時、叔父独国の寓居横山の大徳寺に行って泊って来たということを聞こえたので、大徳寺を訪ねて調査して見たが、何等遺物らしいものはなかったが、独国と共に三碑を建立した玉泉が、その頃大徳寺の住職となり、霊雲玉泉大和尚として過去帳に載ってることが分かった。また庵寺の中の独国和尚墓碑と本尊観音様の碑、第三十三番の碑補陀閣の木額、三十三観音碑、中学校登口の金比羅大権現碑、補陀閣境内の二つの五穀豊穣天下泰平祈願碑、その他周辺の碑石を調査した。然るに第二十三番観音碑に、信夫郡沢又村鉄五郎の名を発見した。そこで、昭和三十年十月福島県に出張の途次南沢又部落の民家・小学校・寺院を尋ねて廻って光徳寺小池正孝氏にあい、この寺に独国が寓居したこと、その門前に鉄五郎の家があったこと雨乞いのことなどがわかり、福島県教育委員会にゆき信達一統志で北沢又川寒の碑等を読み、且つ実査することが出来た。この時平市まで調査した収穫なく、木村町長知人高野満治郎氏の研究により、福島県平市より約九里北方山中に差塩の遺跡あることが明らかとなり、同三十二年九月この地を訪ねて幾多貴重な資料を得、碑文の筆者塩沢無涯を福島市内に探して見当たらず、帰町後同市役所に数度紹介した結果、吏員中にゆかりの女子職員があり、その家に数度文通し、同年十二月五日、六日と実査して多くの資料を得、これをすでに米沢市に照会したが要領を得なかった。しかし偶然にもこの照会を置賜郡露藤の安部名平次氏が聞き、余の尋ねている遺跡が亀岡文珠堂なることを明示せられ、三十三年九月同地訪問して一切が解決したわけである。之れが筆者の大和尚研究経路のあらましである。尚不明な点は独国幼児の弟子入りした寺と、北沢又に誰か当時の篤志な帰依者がなかったものかということである。

二、沢又邑に於ける独国和尚
 光徳寺住職小池正孝師の語る所によれば、独国和尚は住職ではなく暫く寓居して居たらしい。誠に質素であるが地方の信望が厚かったそうで、特に祈祷がすぐれて居て㈠或年旱魃のためこの寺から数丁南の小池に於いて、村人が雨乞いをした。神職数名熱意をこめて祈祷したが、聊かも気配だに見えない。そこに独国が黒染の衣を着て現れ、私が試みようと言って何か熱心にお経を読み、そして終わると声高に気合をかけ払子を池中に投げ入れたら、間もなく大雨が降って来たと伝えている。㈡生き物は殺してはならないと言い、着物を洗濯する時は先ずシラミを拾って紙に包み置き、それから洗濯してかわくとそれに振りかけて着たという。又庭の草を取る時は、むしり取るのは残酷だと言って、必ず抜き取るか堀り取ったという。遺物は地方民に数本の軸物と愛用したという黒塗りの経五寸もある椀があるという。書幅は見たが椀は所蔵者不在の為め見ることが出来なかった。鉄五郎は剣道に秀で、大和尚の伴侍として諸国を巡ったが、四倉に婿入りして世を終わった人物である。ということである。
次に 福島県庁社会教育課梅宮氏の指導により、図書館に信達一統志を読んで見たら、信夫郡北沢村の所に「独国という和尚があった、この僧は米沢の分珠菩薩に祈誓をこめ仏教の真密を覚つ近代の名僧である。」と書いてある。この本は巻之六で天保十年八月志田正徳著となっている。独国は文政十三年五月廿一日示寂であるから、死後十年の著書であるからよく真実を書いたものと思われる。福島市の北、泉駅から下車して約二十分ばかり川寒という所に二間四面ばかりの草茸の地蔵堂がある。その左後方に塩釜石より少し堅いだけで割合風化しやすい石、総高さ五尺に近い五台遍照独国和尚と書いた次のような碑が立っている。これを見た時の感激はとても筆舌では尽くせなかった。
地蔵堂の右側即ち北側に高さ一尺二、三寸の観音像が三十余体並列してある、石が風化して文字は殆ど読み得ない、土地の古老達に尋ねたら三十三観音だという。この地蔵堂の後方に三四十坪の墓地がある。昔金福寺のあった所で、福島の真浄院に合併されたということである。筆者が石摺りなど取って居る所に古老伍六人集まっていろいろ話したが、四十才位のよく物の分かった人が一人来て、その人の曰う所によれば、「昔この寺にとても法力のすぐれた和尚様が居たそうだ。或年松川に大洪水があったが急に水が引いてしまったら川原に鮭が沢山ひあがって村の百姓達はとても運びきれない。そこに通りかゝったのがその和尚さんである。常に親しい和尚さんであるから、この鮭を運んでくれと頼んだら、和尚はなまくさ物に手をかけるものではないと拒絶された。
そこで川原の藤蔓をとり、之れで結んで無理矢理頼んだそうである。後に和尚さんは川原に藤があるから斯様な迷惑をするのだ、宜しいこの藤をたやしてやると言って祈祷したら川原の藤は絶えて、今もこのへんのには殆どありません。此の和尚さんが独国という和尚さんだと聞いて居ます」ということであった。

三、差塩に於ける独国和尚
 平市高野満治郎氏の指示を参考とし、差塩の所在地石城郡三和村役場の涌井清水氏の誠に親切なる案内により平よりバスで約八里北上し、役場に近い根古屋橋で下車し、これより阿武隈山脈上の高原差塩まで徒歩約一里半もある。一里も歩いた頃より全く暗く、これはこれはと思つゝ歩いていた。折しも動力耕運機にリアカーを付けて出迎えられ、夜七時頃無事当地の旧家で名望家、しかも大和尚のお宿であった松崎与三郎氏の宅に着し、格別な厚遇にあずかった。
差塩という部落は標高六百五十米の高原で農家が五軒、三軒と点々約百戸もある所で、小学校兼中学校の校舎が目立つ存在である。
松崎氏所有の山林内に地蔵堂がある。側の大岩窟 に昔僧丹心が開基したが、火災の為に荒廃したのを寛政年中宮城の僧独国なるものが来て、之を中興開山したのであると郷土誌に記されている。
又この岩窟より百米ばかり登れば、花崗岩の岩面に大和尚の自画像と称せらるゝ浮き彫りの坐像がある。実人物より少し大きく。その側に一字一石が小山をなして、お礼参りの多かったことを物語っている。又肖像に相対して、巨牛の横臥したような石がある。こゝに福島駅中町塩駅無涯敬書、信夫郡石工森山庄右ェ門、文政十三年庚寅仲秋という碑文がある。苔むして読みにくから写記してあるものを写して来たが、独国の学殖・思想・出生・死所等を知る上に誠に大切無二の文献で、約八百字位はあろう。その中に誌というか偈というか遺作が十五首も収めてある。自画像の下に福島の利作が骨を持って来て埋めたという。理作とは塩沢無涯のことである。こゝから上は所謂三十三観音が山の周辺に建てられてあって、半日を要する道程の良堂山(爺谷堂山)である。部落により約二百米で標高は八百米の山といわれている。全山花崗岩であるそうだが、屹立する大厳又は岩塊があるかと思うと大和尚の居住した大岩窟あり、樹木鬱蒼として苔むし或は泉水が湧き或は大岩窟屋上三十坪位の大石上に十六羅漢の石像があったり、全く仏蹟の仙境に入る感じのする所である。
地蔵堂の縁日は陰暦三月十日と六月二十四日で地蔵様と独国様を祭るという、 差塩に来る前に藤滝というところに立ち寄った。そこに二坪位の建物があったそうである。独国はこゝで修行しようと、滞在すること数日に及んだが、いろいろな蛇が出て来てその前をのろのろ走りあるき、次第に膝の上にあがり懐中にも這入るようになった。仙人のような境地に居る精神の独国には何等恐ろしくはないが、うるさくて困った。そこで或日彼等に言った。「なぜうるさくする、こゝは拙者のために適地ではない他によい所があるというわけか。今火をたくから左様な意ならば火の上を走れ」と。そして火をたいたら大小の蛇が火をニョロニョロと走ったので藤滝をさりこゝ差塩を選んで来られたと伝えられている。
この地方の人達の信仰は実に深いもので、古い破れかけた大和尚の袈裟を箱に納めて、代々の区長が保管している。祭典は素より個人的お詣りでも、何かの用事があっても、この山に入る時は動物食はとらず必ず精進料理をとることになって居り、我々の如き他所人も守らせられた。妊婦は必ず産前にお詣りすることも、固く守られているそうである。
松崎氏の家はその頃から独国様をお世話申し上げて来たので、数々の書幅・硯・版木などの遺物も所蔵され、また三百年にもなるという古い大きい本宅、数々の附属建物もある広い溝の農家である。

五、福島駅に於ける独国和尚
 享和二年の或日みすぼらしい黒染の衣を着た雲水が、顔色青黒くやせこけて、今にも行倒れになりそうな姿で河原に日向ボッコをして居た。若者達がそれを見つけ事の起こらないうちに、早く他地方に追い払った方がよいと評議して居た。それを聞いた中年の男。「よしよしわしに任せて置けよきにするから、無理はするな」と自ら其の場に行って見た。「坊さんどうしてそんな所に居るんだ。こゝは人気の荒い所で若者達が坊さんに対して何か取り沙汰して居たが何も無いうちに隣邑にでもいかっしゃい」と言った。すると坊さんはいやいや私は何も悪いことをする坊主ではありません。今朝までお山(信夫山)に断食参籠してきたので今疲労を休めて居たところです。決してご迷惑はかけないからそうぞこのまま捨て置いて下さい」と言った。男は我に態度を改め、「それはそれはすまない事を申し上げました。左様なわけなら私の家の離れ座敷が空いているからそこに、お出なさいと無理々々連れて来た。」その男は私の家の先祖で、利作と申し坊さんは独国上人様であったのです。それから私の家ばかりでなく、この地方の人々は深く帰依して教を受け、上人様は常に私の家を中心として各地に旅をされ、文政十三年五月廿一日私の家で入寂されたから女川に飛脚を立て女川からも来られて遺骨遺物を分けたのです。利作の長子与右ェ門はお出掛けには必ずお供したそうです。平の閼伽井岳は地方の霊山でありますが上人様が参籠されると麓を流れる水が白く濁ったそうです。それを見ると麓の人々はお姿を拜がもうと登山したそうだが、或時参禅のお姿を拜しなががら何かがやがや騒ぎたて、お気にさわるような事があったらしい、すると忽ち暴風吹きあれ、草木もちぎれ飛び赤子の泣声もする凄荘の気がみなぎって耐えきれなくなり、衣の袖にすがっておわびしたら「一寸待って居れ」と申され何か祈祷をされると平穏に戻ったという物語もあるということである。塩沢家は家督の忠氏が昭和三十一年に逝去せられ三十二年に七十三才のシクという老婦人と娘夫妻が居られ、近い親戚としてはこの家から嫁がれた折橋セイ(七十三)夫人が集まってくれ、いろいろ話してもらった。遺物としては ㈠板倉候抱画家の上人肖像の軸物 ㈡大硯と大粒の数珠 ㈢一筆竜字書幅等で文書類は忠氏が先年能代銀行に赴任の際持参し同地の大火で消失したという。塩沢家の過去帳を見るに代々の間に、特に五台編照独国大和尚文政十三年五月廿一日随心利作と書き入れてある。無涯の墓は到岸寺に照誉寿円大徳天保十年五十九才とある。それより常光寺門前に行ったら都会風の立派な等身大の次のような碑が建てられ掃除も行届いていた。しかし大都会であるから差塩のように部落挙げて今に信仰が遺っているわけではなく、塩沢家中の人々の信仰を見得るだけのように察しられた。
こゝに塩沢無涯敬書の差塩にある文碑の中から数頁の研究をのせることゝする。
一、詩文が十五首ある中に、詠独国降誕の題下に「宝暦午年午日 筵」とある。これによって上人は宝暦十二年に生まれ文政十三年示寂の時は六十八才であったことがわかる。
二、碑文の末尾に「余師に教えを受くること二十有八年、今茲に五月 廿一日弊蘆に於て示寂せらる、又拙筆が師の志をついで遺文を石に勒し深く宿縁を感ず」とある。これによって二十八年遡ぼった享和二年上人四十才の時が川原に於ける会見の年であることがわかる。
追て塩沢家は上杉氏の家臣で、上杉氏が福島に移った時越後の塩沢から移ったのである。現住所は福島市宮町一七、折橋家は三河北町三一、親族相談の結果上人様の形見を実家の後裔木村町長さんに御贈呈申し上げますと言って雄勝石製の大硯(長さ八寸巾四寸厚さ一寸五分)重量一貫目位の物を依頼されて送達した。尚上人様の遺蹟が関西に三か所あると伝え聞いて居たが、十数年前常光寺に何か書類がそこから送られて来たそうですと夫人は話していた。(後日の研究にゆずる)

六、米沢に於ける独国
 女川 に語り伝えられて居るところによると、米沢の岩屋で修行したと言ってる。信達一統志には米沢の文珠菩薩に祈誓こめて、仏教の真密を覚つた近代の名僧と書いてあるので、米沢市に窟と独国和尚の遺跡を文書で尋ねたが、米沢に文珠堂はあるが、窟もなく独国和尚の遺跡はない。時代のずれもあるが米沢の寺に越後の女川村生まれ独国という和尚は実績があるという回答を得た、重ねて尋ねたが同じことである。どうしても米沢には手掛かりがないので困りきって居た折、安部名平次という人から突然貴下の尋ねて居られる独国和尚の遺蹟は米沢藩ではあるが、東置賜郡高畠町亀岡の文珠堂で米沢市の文珠堂はこゝの末寺のような関係にある所である。種々遺物遺跡もあるから是非来い。そして是非独国様の全貌をも聞かせてくれということになった。昭和三十三年九月十八日高畠町露藤に安部氏を訪ね三泊して亀岡文珠堂に行き、又山木村利憲氏をも訪ねて次の調査を遂げた。
独国 和尚の文珠堂に居られた年代は知るべき文献とてもないが、信達一統志の文やこの地方のいろいろなことを統合すると、晩年ではないようである。而して山上の岩屋に毎日通って座禅をしたということや、断食参禅をこの岩屋でしたという話などから考えると、短期間通りすがりに奇寓して参禅したようなものではなく、相当年数修業したものと考えられる。周囲の山が文珠山を中心として支那の五台山の山相をして居る故に、この地を五台山というので、独国和尚が自ら五台仙人独国と称したことなどから考えると、僧侶としての自己の生命の地としたようにも考えられ、相当長い間の修業の寺であったの考えられる。老杉鬱蒼たる境内の路傍に、山木村利兵衛氏を中心として当時の帰依者達が右図の如き立派な石像を、文政十年に建立した事実より考えれば、大和尚はこの地に於いて仏道の真密を悟ると共に、晩年まで終始来往して布教に努めて居られたことが明らかである。それ故に米沢の岩窟が修業の地であると女川の言い伝えにも信達一統志にもあるのである。
山木家は当地方における帰依者の中心で、同時に当地布教の拠点でもあった家柄である。従って他方と同様一筆大字竜の軸を始めとして軸物十数本、仏説文珠無量無辺経写本一巻、破れかけた古い頭陀袋・香炉・托鉢用の鈴などが大切に家宝として保存され、一家揃って大和尚信仰の念誠に深いもようで ある。而して差塩の郷土誌には宮城の僧とあるが、こゝでは大和尚の出身地を伝えていない。修業した岩窟は文珠山八合目位の所にあるが、山が急斜面で而かもツゲの密林を漕ぎ分けることが甚しく困難で、三名の人々に手を引き尻を押されなどして四十分余もかゝった。容易に究めることが出来ない所である。畳なら五六枚も敷ける広さで最も静寂な境地、而かも不動様の持ってるような大小二振の劔が供えられ、神仙の気が迫るように感じられた。

七、結び
以上女川・南沢又・北沢又・差塩・福島旧市内・亀岡等の遺蹟を巡って独国上人は次のような方であることがわかった。
一、建立した碑石等をみると曹洞宗と書いてあるが、修行した寺の中に横山の大徳寺、亀岡文珠堂の大聖寺、信夫山の薬王寺、 閼伽井岳の寺等は曹洞宗ではない。川寒の地蔵堂や金福寺も真言宗である。
二、断食修業したことは各地でわかるが、詩文等から見ると心に俗気が生じてくるとすぐ参禅 断食して心を澄ますことに努力し、そして布教されたらしい。
三、布教の拠点ともいうべき家は女川では補陀閣、南沢又では光徳寺、北沢又は不明、福島駅では塩沢家、差塩では松崎家、亀岡では山木家、 斯様な家々を拠点として行脚と布教に一生を捧げた人である。差塩の岩阿の前には文化四年三月、芸州高田郡吉田村、源吉、雲州仁多郡中井野村、乙松、当山中興曹洞独国という妙典一字石一行三礼塔が建立されてあることから考えると、上人はこの供養塔を建立する以前に関西を行脚して二人の弟子、否帰依者を差塩に伴い来てこの碑を建てたのではあるまいか。而して文政七年に三十三観音を建立したがこれは関西三十三観音を行脚してその土砂を頂いて来て建立したのであるから、文化四年より十七年後であることを考えると、三十三観音建立の時は又々目的をたてゝ行脚したのであるまいか。
四、遺物中書幅は別として衣類持物は甚しく簡素な物である。唯塩沢家に遺った硯だけは台附の大物である。以て上人の平常と人格が察しられる。
五、逝去されたのは塩沢家であるが、利作塩沢無涯の計らいと各地の帰依者の希望により、次の所に埋葬は埋葬されたようである。
㈠女川町の補陀閣
㈡福島の常光寺
㈢北沢又川寒三十三観音ある地蔵堂境内
㈣差塩松崎家山林地内自画像の下
亀岡文珠堂境内石仏像下
六、要するに上人は曹洞宗の僧侶であるが、他の宗の山門にも修業を積み、殊に真言宗の祈祷をはげみ、無論妻子はなく無欲無念の境涯を愛し俗気が起きれば断食参禅して澄み切った精神に立ちかえり、ひたすら仏道の弘道と庶民の病苦災禍を救うために一身一代をつかった近代希に見る名僧である。

————————-  女川町「女川町誌」昭和35年第8刊  ————————

[編集後記]
女川三十三観音については2012年8月14日、お盆に帰省した折、同級生の木村君に同行して頂き、全ての観音碑をカメラに収め、Webサイトに掲載済みである。
彼は本文にも紹介されているように独国和尚の生家とされる「女川の鍛冶屋(木村家)」のご子息であり、「一筆大字竜の掛軸」などが家宝として家に掛けてあったそうだが、残念ながら、東日本大震災の大津波で全て流されたということだ。また、生家近くにある補蛇閣の隣に在ったとされる「竜灯の松」は彼の父の記憶にも無く、既に存在しない。
彼の説明によれば三十二番観音碑は以前は三十三観音碑が建立されていた山の中に在ったらしいが、「転げては戻し、戻しては転げる」ので、補蛇閣内の独国和尚墓碑の隣に置かれるようになったということである。
掲載にあたり女川出身、東京在住の鈴木雅子さんに「女川町誌」のコピーを送って頂きいた。本文は一言一句原本に忠実に掲載したつもりである。また、前女川教育長にも一読して頂いていることを付け加える。

※ p916~p917 「三、差塩に於ける~」と「五、福島駅に於ける~」の間に「四、」の記入がない。原本にも記述が無いことを確認した。
※原本には貴重な写真が数枚掲載されていたが、コピーであるため状態が悪いので割愛した。
※原本は「くの字点」が多様されていたが、横書きでは不可なので、同じ文字を続けた。

女川・三十三観音巡り(一番碑~五番碑)

文政七年(一八二四年)、独国和尚が「五穀豊穣、天下泰平」を祈願して建立した三十三基の観音碑。病気、天災、海難など、それぞれの観音碑が難を救済するといわれ、地元の信仰を広く集めてきました。石碑は尾根づたいに並び、その約1.8Kmの遊歩道が新しく整備され、平成四年に完成。豊かな自然に囲まれ、展望の美しさも加わり、歴史散歩の道として親しまれています。
※入口付近の「波切不動尊」は津波よりもその後の大雨で荒れているようです。山道は極めて良好である。途中、熊野神社に向かう道があり、近くには展望台もあった。
※三十三観音巡りは5pで構成されています。全編を閲覧するにはここから
独国和尚についての詳細
[nggallery id=57]
※左には「おながわBook」による観音名を記載しました。現地看板の表記による。
右側には「女川町教育委員会」による観音名を記載しました。

一番碑・楊柳観音(ようりゅうかんのん)                如意輪観音
二番碑・龍頭観音(りゅうずかんのん)                聖観音
三番碑・持経観音(じきょうかんのん)                           馬頭観音
四番碑・円光観音(えんこうかんのん)               千手観音
五番碑・遊戯観音(ゆげかんのん)                 不空羂索観音

※それぞれの観音の由来は写真中の看板に説明書されています。

女川・三十三番観音(六番碑~十三番碑)

文政七年(一八二四年)、独国和尚が「五穀豊穣、天下泰平」を祈願して建立した三十三基の観音碑。病気、天災、海難など、それぞれの観音碑が難を救済するといわれ、地元の信仰を広く集めてきました。石碑は尾根づたいに並び、その約1.8Kmの遊歩道が新しく整備され、平成四年に完成。豊かな自然に囲まれ、展望の美しさも加わり、歴史散歩の道として親しまれています。
※入口付近の「波切不動尊」は津波よりもその後の大雨で荒れているようです。山道は極めて良好である。途中、熊野神社に向かう道があり、近くには展望台もあった。
※三十三観音巡りは5ページで構成されています。全編を閲覧するにはここから
独国和尚についての詳細
[nggallery id=62]
※左には「おながわBook」による観音名を記載しました。現地看板の表記による。
右側には「女川町教育委員会」による観音名を記載しました。
六番碑・ 白衣観音(びゃくえかんのん)                     十一面観音
七番碑・蓮臥観音(れんがかんのん)                       如意輪観音
八番碑・滝見観音(たきみかんのん)                               聖観音
九番碑・施薬観音(せやくかんのん)                        十一面観音
十番碑・魚藍観音(ぎょらんかんのん)                    千手観音
十一番碑・徳王観音(とくおうかんのん)                   十一面観音
十二番碑・ 水月観音(すいげつかんのん)                  不空羂索観音
十三番碑・一葉観音(いちようかんのん)                    如意輪観音

※十二番碑・ 水月観音(不空羂索観音)は東日本大震災以降行方不明

女川・三十三観音巡り(十四番碑~二十一番碑)

文政七年(一八二四年文政七年(一八二四年)、独国和尚が「五穀豊穣、天下泰平」を祈願して建立した三十三基の観音碑。病気、天災、海難など、それぞれの観音碑が難を救済するといわれ、地元の信仰を広く集めてきました。石碑は尾根づたいに並び、その約1.8Kmの遊歩道が新しく整備され、平成四年に完成。豊かな自然に囲まれ、展望の美しさも加わり、歴史散歩の道として親しまれています。
※三十三観音巡りは5ページで構成されています。全編を閲覧するにはここから
独国和尚についての詳細
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※左には「おながわBook」による観音名を記載しました。現地看板の表記による。
右側には「女川町教育委員会」による観音名を記載しました。
十四番碑・青頸観音(しょうきょうかんのん)              如意輪観音
十五番碑・ 威徳観音(いとくかんのん)            聖観音
十六番碑・延命観音(えんめいかんのん)          不空羂索観音
十七番碑・衆宝観音(しゅうほうかんのん)          聖観音
十八番碑・岩戸観音(いわどかんのん)            如意輪観音
十九番碑・能静観音(のうじょうかんのん)                不空羂索観音
二十番碑・阿耨観音(あのくかんのん)          不空羂索観音
二十一番碑・阿縻提観音(あまだいかんのん)       十一面観音

今回の女川三十三観音巡りの目的は、ご先祖様の名前が刻まれている観音碑を探すことでした。現場では分からなかったのですが、自宅に帰って編集していると、二十一番碑(十一面観音)、左下に(指ヶ濱 兵吉)としっかり刻まれていました。
寄進者:指ヶ濱(兵吉)、竹浦(源十郎・源作)、真野村(助五郎)、女川村(喜三郎)
※上記の寄進者は二十一番碑の寄進者であり、他の観音碑には それぞれに寄進者が記録として残っている。※六番碑の寄進者は不明

女川・三十三観音巡り(二十二番碑~二十九番碑)

文政七年(一八二四年文政七年(一八二四年)、独国和尚が「五穀豊穣、天下泰平」を祈願して建立した三十三基の観音碑。病気、天災、海難など、それぞれの観音碑が難を救済するといわれ、地元の信仰を広く集めてきました。石碑は尾根づたいに並び、その約1.8Kmの遊歩道が新しく整備され、平成四年に完成。豊かな自然に囲まれ、展望の美しさも加わり、歴史散歩の道として親しまれています。
※三十三観音巡りは5ページで構成されています。全編を閲覧するにはここから
独国和尚についての詳細
[nggallery id=68]
※左には「おながわBook」による観音名を記載しました。現地看板の表記による。
右側には「女川町教育委員会」による観音名を記載しました。
二十二番碑・葉衣観音(ようえかんのん)         聖観音
二十三番碑・瑠璃観音(るりかんのん)           千手観音
二十四番碑・多羅尊観音(たらそんかんのん)       不空羂索観音
二十五番碑・蛤蜊観音(こうりかんのん)          千手観音
二十六番碑・六時観音(ろくじかんのん)         千手観音
二十七番碑・普悲観音(ふひかんのん)           如意輪観音
二十八番碑・馬郎婦観音(ばろうふかんのん)        聖観音
二十九番碑・合掌観音(がっしょうかんのん)        不明

女川・三十三観音巡り(三十番碑~三十三番碑)

文政七年(一八二四年文政七年(一八二四年)、独国和尚が「五穀豊穣、天下泰平」を祈願して建立した三十三基の観音碑。病気、天災、海難など、それぞれの観音碑が難を救済するといわれ、地元の信仰を広く集めてきました。石碑は尾根づたいに並び、その約1.8Kmの遊歩道が新しく整備され、平成四年に完成。豊かな自然に囲まれ、展望の美しさも加わり、歴史散歩の道として親しまれています。
※三十三観音巡りは5ページで構成されています。全編を閲覧するにはここから
独国和尚についての詳細
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※左には「おながわBook」による観音名を記載しました。現地看板の表記による。
右側には「女川町教育委員会」による観音名を記載しました。
三十番碑・一如観音(いちにょかんのん)          千手観音
三十一番碑・不仁観音(ふにかんのん)          聖観音
三十二番碑・持蓮観音(じれんかんのん)          不空羂索観音
三十三番碑・灑水観音(しゃすいかんのん)          聖観音
夫婦杉
※震災後傾いたり埋没していた観音碑及び看板は2・5・9・10・12・14・16番碑のようです。その内、12番碑だけが不明ということです。~女川町教育委員会資料より~

今回の三十三観音巡りは2012年8月14日、独国和尚の末裔と言われている同級生の案内で回ってきた。天候が少し不安定で湿度も高く大汗をかいての観音巡りであった。
近くには白山神社があったとされる場所に案内され、当時の津波の状況の説明を受けた。神社は取り壊され、新しく建設する為、現在資金援助を全国に募っている
三十三観音の逸話 :最後の三十三番碑は以前は、二十五番碑~三十二番碑が建立されているところにあった。しかし、転げ落ちては戻し、何度戻しても転げ落ちるので
独国和尚の墓碑がある補陀閣(独国和尚の庵寺)の中に並んで置かれるようになった。
庵内には第三十三番観音碑、独国和尚墓碑、本尊観音像碑の3つの石碑があります。
※ 補陀閣は山道入り口より手前の少し離れた所にあり、東日本大震災の大津波で浸水し、大分荒れていたが墓碑や観音碑はしっかりと残っていた。同行した友人の生家もすぐ近くにあり、独国和尚直筆の「龍」と言う掛け軸共々津波で流された。

「独国和尚」年表

宝暦十二年(1762年)                       女川浜鍛冶屋(木村家)に生まれる
/                                  享和二年(1802年)
/                                塩沢無涯(利作)と出会う
/
/                                文化四年三月(1807年)
/                                  差塩  妙典-字石-行三霊塔建立

文政七年(1824年)          三十三観音建立(女川山地内)

文政八年(1825年)          金比羅大権現碑建立

文政十三年(1830年)         福島県川寒の塩沢家で入寂
(天保元年)                       天保十八年八月発行の信達一統志(志田正徳著)
/                                                            「独国和尚という和尚があった、この僧は米沢分殊
/                                                         薩摩に祈祷を込め仏教の真密を覚った近代の名僧
/                                                                 である。」と記されている。

~女川町教育委員会・生涯学習課資料より~